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第5話 次の嫁がいる食卓

last update publish date: 2026-05-02 18:32:56

 ダイニングルームに入った瞬間、足が止まった。

 義母の冴子、その隣には祖母の千鶴、向かいには朔弥さん。そして、夜の席にいることがあまりに自然すぎる一条澄麗。

 胸の奥で脈がひとつ大きく跳ねた。嫌な予感だけが、遅れてはっきり輪郭を持つ。

 澄麗は淡いグレージュのセットアップに細いパールを合わせて、まるで最初からこの家の夜の食卓に馴染むために育ってきたみたいな顔をしている。

「こんばんは、真尋さん」

 澄麗がやわらかく微笑んだ。

「ごめんなさい、勝手にお邪魔してしまって。御門家とは家族同然のお付き合いですので、つい昔の癖で入ってしまいましたの」

 私は一拍遅れて会釈した。

 もう次の嫁まで、夜の席についているのか。

 冴子が紅茶を置きながら、穏やかな声で言った。

「昨夜は大変だったわね。澄麗さん、心配していたのよ」

「わたくしは本当に大したことではございませんの」

 澄麗は控えめに首を振る。長い睫毛が伏せられる、その仕草まで上品だった。

「真尋さんのようにお仕事をきちんと積み上げてこられた方って、本当に立派だと思いますわ」

 やわらかな声が、きれいに耳へ入ってくる。

「でも、そのぶんご自身のことは後回しになさってきたのでしょう? 女には、どうしても選ばないといけない時期がありますものね。お仕事を優先なさる方ほど、そのあたりのことは難しくなると伺いますし……」

 穏やかな声だった。だからこそ、意味だけがきれいに届く。

 ――仕事を選んでいるうちに、出産適齢期を過ぎた女。

 そう言いたいのだ。

「ありがとうございます」

 私も笑った。

「ええ。ですから私は、若さ以外の価値を作るほうを選んできましたので」

 澄麗の表情が、ほんのわずかに止まる。

 けれど冴子は何もなかったみたいに続けた。

「署名も、あまり長引かせないほうがいいわね。こういうことは、話がこじれる前に済ませるのが一番だから」

 冴子が穏やかに言うと、澄麗もやわらかく頷いた。

「真尋さんほど聡明な方なら、きっとおわかりになりますわ。感情で長引かせるより、きれいに終わらせるほうが、皆さまのためですもの」

 皆さま。

 便利な言葉だ。誰か一人を黙らせたい時だけ、急に人数が増える。

「……ずいぶん親切なんですね」

 私が言うと、澄麗は困ったように目を伏せた。

「昨日は私が悪かったんです。こんなことで空気を悪くするのはよくないですし……。真尋さんの大事なお洋服を汚してしまったのも私のせいです。責めるなら私を責めてください。朔弥さんに当たらないでください」

 そこで、何かが切れた。

 私は一度だけ、笑った。

「……ずいぶんチクチク言ってくださるのね」

「真尋」

 低い声で、朔弥さんが制した。

 止める声だった。守るためじゃない。この場を壊させないための声だ。

 私は一条ではなく、朔弥さんを見た。

「これでもまだ、私のほうが悪いと思っているの?」

 朔弥さんは答えなかった。

 答えられないのだと、その沈黙でわかった。

 喉の奥がひどく痛む。

 この人は、私が正しいかどうかより、私が今ここで黙るかどうかのほうを気にしている。

「……気分が悪いから、食事はいりません」

 椅子を引く音が、静まり返った部屋にやけに大きく響いた。

「真尋」

 呼ばれても振り返らなかった。

 ここで立ち止まったら、また都合のいいほうへ戻される。

 部屋に戻ってしばらくして、スマホが震えた。

『服のことなら、新しいのを選べばいい。代金は出す』

 喉の奥がひどく乾いた。

 そうじゃない。

 そこじゃない。

 でも、この人にはたぶん、そこしか見えていない。

 返信しないまま風呂に入った。

 熱い湯の中で目を閉じても、朝食卓の空気は落ちない。

 ノックの音がしたのは、髪を拭きながら部屋を出た時だった。

「真尋」

 扉の向こうから、朔弥さんの声がした。

 少しだけ迷ってから、鍵を開ける。

 開いた隙間の向こうで、朔弥さんは一瞬だけ言葉を失った。

 バスタオルのまま出てきた私を見て、目が止まる。

「……何ですか」

 自分でも驚くほど、声は冷たかった。

「メッセージを送った」

「見ました」

「なら返事をしろ」

「返す必要がある内容でした?」

 朔弥さんの眉が寄る。

「服のことは弁償する」

「だから、そこじゃないんです」

 言った途端、喉の奥が熱くなった。

「私が腹を立ててるのは、服じゃない。お金でもない。なのにあなたは、またそこだけで片づけるんですね」

 朔弥さんの顔から、すっと温度が消える。

 怒ったのではない。たぶん、言い返せない時の顔だ。

「……じゃあ何だ」

「わからないなら、もういいです」

 扉を閉めようとした瞬間、朔弥さんの手が先に伸びた。

 扉の縁を押さえられて、思わず一歩下がる。

「真尋」

「やめてください」

「ちゃんと話せ」

「今さら何を話すんですか」

 声が少しだけ震えた。

 怒っているのに、泣きそうな時みたいな震え方だったのが悔しい。

「中途半端なことはしないで」

 朔弥さんの目が、わずかに揺れる。

「切るならちゃんと切って。こんなところまで来て、わかったふりを……」

 言い終わる前に、足元が滑った。

 濡れた髪から落ちた水が床に散っていたらしい。バランスが崩れて、体が傾く。

 次の瞬間、朔弥さんの腕が私の腰を掴んだ。

 息が止まった。

 落ちるはずだった体が、熱のある腕の中で止まる。バスタオル越しでもわかるくらい、距離が近すぎた。

 見上げた先で、朔弥さんの喉がわずかに動く。

 視線が、私の顔から肩へ、濡れた髪へ、また唇へ落ちる。

 その遅さが、ひどくまずかった。

「……朔弥さん」

 呼ぶと、彼の指先が一瞬だけ強くなる。

 離婚したい男の手つきじゃなかった。

 抱き止めているだけのはずなのに、そうは思えない熱だった。

 このまま少しでも動けば、何かが変わってしまいそうな沈黙が落ちる。

 こんな時だけ、体が昔を思い出す。

 再建の夜、会議室、低い声、たまに近すぎた距離。

 私だけが勝手に特別だと思っていたもの。

 彼女がいなかったら。

 まだ私たちに、何かあるんじゃないかと、愚かにも思ってしまう。

 けれど、先に我に返ったのは朔弥さんのほうだった。

 触れた手を急に離し、半歩下がる。

 息を吐く音だけがやけに大きい。

「……悪い」

 それだけ言って、彼は私を見ないまま背を向けた。

 閉まった扉の前で、私はしばらく動けなかった。

 期待した分だけ、たぶん私はまた馬鹿を見る。

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